Saikoと玉蓮寺

Saiko and Gyokurenji

Saiko作品の重要なモチーフのひとつにお寺があります。それは宮城県北部の町美里町にある実在のお寺、玉蓮寺でした。お寺とSaikoをめぐるストーリー、そこから生まれたメディア作品をご紹介します。

One of some things she often chooses to draw is a particular Buddhist temple in Northern Miyagi Prefecture, named Gyokurenji. Learn how it is special to her and see some of her works. 

宮城県北部に位置する美里町は、仙台から東北本線で40分ほど。奥羽山脈から流れる鳴瀬川と江合川に囲まれ、水田がつづく豊かな穀倉地帯です。
この地を大柳山玉蓮寺初代住職となる白木澤大淵師がはじめて訪れたのが明治26(1893)年、今から127年前のこと。大淵師28歳のことでした。
今の大船渡市吉浜のお寺・真称寺の11人兄弟の次男として生まれ、12歳で法務手伝いの小僧に出された後、さまざまな苦難を乗り越えながら自分の道を切り拓こうとしていた大淵師は、掘建て小屋のような説教場があるばかりだったというこの地を前にしながらも、ここでやっていこうと決意したといいます。
こうして翌明治27(1894)年春、大淵師は正式に住職に就任しました。お寺の名前は「玉蓮寺」。当時は新しい寺の創建は許されていなかったそうで、秋田にあったお寺の「寺号」を移転しての出発だったそうです。

写真:初代大淵住職の自伝「白木澤大淵自叙伝」(1999年発行)

大淵師が小学校時代に思ったこと 「白木澤大淵自叙伝」より

「人間は生まれたらただ衣食して足れりとすべきではなるまい。また毎年この山内にありて同じ行事を繰り返して徒らに光陰を送ることは、仏祖に対し、国家に対し、済まざる行為ではなかろうか。のみならず名誉としても、牛飲馬食して安閑として日頃市の土になるばかりでは生まれた甲斐なきことである。」

写真:初代大淵師「白木澤大淵自叙伝」より

大淵師の10代後半から20代後半までの人生をラップのリリック風にまとめてみました

学問がしたくて仙台へrun away
怒られながらも学問所へ入学
でもその年コレラの流行で学校は休校
勉強がしたくて尾張へ行くも
2年で徴兵検査 涙を飲んで帰郷
あきらめきれずに東京へ行くと
病にかかって泣く泣く帰郷
仙台教務所の書記を務めた後
全国布教を志すけれど
反対にあってあえなく断念
そんなときにすすめられた仙台の北・大柳説教場

写真:初代住職の家族(明治37、8年頃)「白木澤大淵自叙伝」より

玉蓮寺住職に就任した2年後、明治29(1896)年、2代目住職となる大専師が生まれ、そのすぐ後に三陸大津波が大淵師の故郷を襲います。地震ののちにドーンという音響が玉蓮寺にも聞こえました。出産の手伝いに来ていた御母堂とともに故郷へ帰ると、唐丹の親戚は全員行方不明、死体さえ見つからなかったと言います。
しかしこの年の末、大きな転換が訪れます。門徒のみなさんから「本堂を建てましょう」と。材料は大淵師の故郷に相談すると「どれでもいい、もっていけ」
気仙の険しい山中から切り出された木々が、馬車で大船渡海岸へ運ばれ、達磨船で石巻、野蒜に荷揚げされたり、鳴瀬川をのぼって大柳へと運ばれたりしました。
大雨がふり、鳴瀬川が増水して、水に浮かんだために用材が容易に境内まで運ことができたり、本堂建設の要と言える大虹梁が調達できずにいると、故郷の海岸に巨大な流木が現れるたり、お寺付近の水田からこれも立派な埋もれ木が出現したりと、さまざまな神秘的な出来事があったそうです。
お寺は明治32(1899)年に起工式が行われ、気仙の大工の棟梁・佐藤助五郎氏を頭に、2年後の明治34(1901)年に本堂内陣まで完成しました。

写真:昭和7、8年頃の本堂。右下は初代・二代目住職「白木澤大淵自叙伝」より

ここからは、大奥さま智子さん(3代目智淵住職の奥さんで初代大淵師の孫)からのお話をもとに2代目からのエピソードをご紹介しましょう。

2代目の大専さんは、京都の大谷大学に行ってらっしゃいましたけど、鳴瀬川の工事でお寺を移転することになって、それを機に「おやじにはまかせられない」と戻っていらっしゃいました。
豪傑でね、素晴らしい方でした。在郷軍人。満洲にもお勤めされました。
夕食のときなんかは、親子3代で晩酌するんですが、もっぱら仏教談義でしたね。世間話なんて全くしないんです。ずっと念仏の話。それぞれに主張があって、切磋琢磨していましたね。自分が正しいんだって。3人が3人とも大きな声で。

写真:2代目大専住職「白木澤大淵自叙伝」より

3代目の智淵さんは、3歳のときにお母さんを亡くしていましてね。ただ、そのことは中学に入るまで知らされなかったそうです。
学校の先生をしていましてね、自由教育といって外に出して遊ばせたり、一風変わった教育をしていたそうです。よっぱらってガラス壊したりもしましたが、こどもたちには慕われて、受け持ちじゃない子にも「先生に教わった」といつまでも言われてました。
当時は貧しい子はお弁当ももってこれなくて、自分のをわけたり、近所の長沼商店でお菓子やパンを買って食べさせたりしていましてね、家に持ってくる給料がなくなったりもしましたね。
生徒さんの中に、貧しいために仲間からいじめられて、卑屈になっていた子がいたそうですが、その子を持ち上げて英雄にしてあげたりして、その後本当に立派な人に育ってね。

写真:3代目智淵住職「白木澤大淵自叙伝」より

4代目の建生さんは、まじめ一本、あそぶことも知らない人でしたね。やさしい子で、柔道部だったんですが、自分が勝ったら相手の親が悲しむだろうと。本堂の前の松が枯れそうなのを見て、亡くなる2ー3年前は「俺の命とおまえはいっしょ」だな、なんて話しかけたり、本堂のすずめに手を振ったり、セミとりに来た子を追い返したりね。気持ちのやさしい方でした。

写真:4代目建生住職「白木澤大淵自叙伝」より

5代目真一さんには直接お話をお聞きしました。

京都生まれ京都育ち。結婚を機に寺に入りました。
大学は大谷大学でしたが、それが宗派の大学とも知らなかったほどです。
大学卒業後は、証券会社に入社しました。リーマンショックの年でした。
転職して、警察官になりました。ご遺体との対面が多い職場で、まるでシャバの縮図を見ているようでした。
2015年、大学時代の同級生で玉蓮寺の娘と結婚、寺に入りました。
寺は難しいです。ひとりひとり問題ちがう。
歴代の住職は人気者ばかり。門徒さんたちが支えてくれています。
行事が多いお寺です。コロナでこのところ少なくなっていますが、通常だと毎月2回の勉強会、28日の聖人の命日には御婦人の集まり、29日には仏事とお茶飲み会、子ども会も毎月やっています。このほか、登米の開拓2−3世のみなさんのための玉蓮寺あゆみの会や、2泊3日でお寺に泊まる念仏交流会など、人が来る機会多いお寺です。

3代目智淵さんの娘が、Saikoさんのお母さん。玉蓮寺に生まれ、大学では西洋史を専攻。パスカルとキリスト教をテーマに卒論を書かれたそうですが、こどものころから紙さえあれば描いていたそうで、本当は美大に行きたかったとのこと。ずっと持ち続けていたその思いは後にかない、多くの作品を生み出しました(こちら)。

Saikoさんも同様にこどものころから絵を描きつづけ、現在にいたっています(こちら)。Saikoさんのモチーフとしてお寺が登場し始めたのはこの2年ほどのこと。繰り返し描かれるお寺に、アート・インクルージョンのみんなは「どこのお寺?」と思っていましたが、お母さんの実家と知って納得。2020年3月に仙台市一番町の「Ai GALLERY」での個展を予定していましたが、新型コロナの影響で延期となり、10月にオンラインでの開催となりました。Saiko作品のバックボーンを知りたいと玉蓮寺を訪ね、いっしょにオリジナル曲の制作も行うことに。デモを聞いた真一さんからは「自分の応援歌のようだ」との感想をいただきました。

描かれるひとつひとつには、その人のこれまでの人生が塗り重ねられており、どの人生も豊かなストーリーとその人にしか持ち得ない固有の価値を持っています。作品や表現行為はその証明であり、それらを通して自分たちの人生をかえりみ、ひとの人生に思いを向ける地平になります。オンラインという、コロナ時代においてそうせざるを得ずしてとった方法ではありますが、それによってまたリアルな個展とは別の結びつきや気づきへとつながることを願って。
(本展キュレーター:門脇篤)

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「GYOKURENJI」

鳴瀬川のほとりにたつ わたしのお寺
120年前にみんなでたてたお寺
材木は三陸の山から海わたり
鳴瀬川のぼってここまで運ばれてきた

ああ 花がさく
ああ セミがなく
ああ 鳥がとぶ
今日も かねをつこう

鳴瀬川のほとりにたつわたしのお寺
真一さん今日もおつとめごくろうさま

大柳山玉蓮寺は明治32年起工
初代・大淵師は今の大船渡・吉浜・真称寺に生まれ
紆余曲折あって宮城県北部のこの地へと赴任してきた
あぜんとするほど粗末な掘建て小屋ひとつきりが立つこの地で
ひとりひとり門徒集め やがて本堂たてることになった
気仙の実家に相談すると
明治の大津波おきたばかりの 三陸の地から寺建てるならと
つぎつぎ 材木届いていった
たくさんの気持ち ひとつになって
本堂になった

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鳴瀬川のほとりにたつみんなのお寺
その絵を描きはじめてどれくらいたつだろう
お正月お盆には里帰り おばあちゃん こんにちは
山門くぐれば とうろう つるとかめもいる

ああ お焼香
ああ つもる雪
ああ 除夜の鐘
今日も かねをつこう

鳴瀬川のほとりにたつ みんなのお寺
今日も真一さんの絵を描こう

玉蓮寺二代目大専師は豪傑 満洲にも行った 在郷軍人
夕食のときには親子3代で仏教談義

 三代目の智淵師は学校の先生 自由教育
弁当もってこない子にわけたり 長沼商店でパン買ってあげたり

四代目建生氏はまじめ一本 柔道部
すずめに手をふったり セミとり来た子おいかえしてやったり

五代目真一師は元証券マン 元警察官
お寺の琴ちゃんと結ばれて玉蓮寺の住職に

ああ 庭そうじ
ああ 墓参り
ああ おまんじゅう
今日も かねをつこう

鳴瀬川のほとりにたつ みんなのお寺
今日もたくさんお寺の絵を描こう